成功する為に必要なファクターは才能なのか?努力なのか?
こんな議論をよく目にします。
私は昭和生まれで、この世代の特徴としては「才能よりも努力を美徳とする。」傾向が顕著です。
これは教育の過程で努力に勝る成功方法はないと教えてこられているから仕方がない部分があります。
例えば能力が平均的であるA君と、もともと身体能力が高く知能も優れているB君がいたとします。
少ないコストで高いパフォーマンスを出すのは言うまでもなくB君である可能性が高いです。
しかし、私達の世代は「そこで必ずしもA君がB君に負けるとは限らないのだ。そこは努力次第!」というような教育を受けてきました。
予想の範囲内ではありますが難易度の低いタスクであれば、投下するコストによってはA君がB君のパフォーマンスを上回るようなケースがなくはないと思います。
例えば数学のテストの得点を競う場合、A君の学習時間が500時間に対してB君の学習時間が50時間だったとします。
テストのレベルが低い場合、もしかするとA君がB君に勝る点を獲得する可能性もなくはないでしょう。
私達の世代では、このような形でA君がB君に勝ったとすると、この結果に対して「素晴らしい!」と評価を受けてきたわけです。
これが1つの正解だったんですね。
「持って生まれた能力や環境で有利な者を、不利な状況である者が努力した結果、相手を凌駕して勝利する。」
こういった部分を非常に高く評価して美徳としてきた世代としては、姿の見えない「才能」というものが存在するという現実を受け入れがたい場合が多々あります。
私も今は考え方を改めていますが、実際に才能というものが本当に存在するのか?と疑っていました。
確かにミクロの視点で見れば、努力で才能を凌駕する事も絶対に不可能とは言えません。
しかし、それには必ず限界がやってくるはずです。
上記のA君がB君に勝利したケースでは実に10倍の時間をテスト勉強に消費する事になると仮定しています。(実際には10倍で勝てるかわかりません。)
膨大なコストを支払って、仮に1つのテストでB君に勝利したとしても、おそらく勝負が長期化した場合、この先に何度もテストを繰り返したとしたらトータルの結果は変わってくるのではないでしょうか?
毎回毎回、A君がB君の10倍の時間を消費し続けるのは効率的ではありません。
テストの難易度が上がってくれば、10倍の量をこなす事自体が難しくなってくるかも知れません。
しかし、私達の世代では、努力しても勝ち目がないという発言は投げやりで消極的な態度であり、その思考自体がヤル気のないダメ人間の典型例。
こういった人間は何もしない怠け者であると評価されるのです。
例えば陸上競技の結果を見てみましょう。
陸上競技に関しては世界新記録を更新している選手は圧倒的に黒人の割合が高いです。
これは偶然でしょうか?
「何となく黒人はスポーツが得意そうだ。」と感じた事がありませんか?
実は既に人種別の身体能力について遺伝的要素が、どのくらい影響するのか?という研究が進んでおり、多くのエビデンスが存在しています。
また、知能に関する遺伝的要素も同じく研究が進んできています。
特に努力せずとも、生まれつきスポーツが得意であったり、知能が高いという特徴を持った人が実際に存在するという事です。
これは努力ではなく遺伝です。
つまり、才能というのは遺伝と言い換える事ができるのかも知れません。
大谷翔平選手は他の選手と比較して、練習量が多かったから世界の大谷になったのでしょうか?
わずか21歳にして史上初となる全8冠を達成した藤井聡太氏は他の棋士より、他の人が真似できないほど膨大な練習をしたから快挙を成し遂げたのでしょうか?
ご飯と睡眠以外の時間を全てボクシングに捧げたら、井上尚弥選手に勝てるでしょうか?
普通に考えれば、全て誰でも理解できるはずです。
私の考えとしては、自分の得意な部分と不得意な部分をなるべく早い段階で客観的に評価できる人が成功しやすいのだと思います。
偉業を成し遂げるような天才的な才能とは言えなくても、必ず人間には得手不得手というものがあります。
何が得意か?何が苦手か?
何をすると楽しいのか?何が嫌いか?
こういった自分自身の才能に、なるべく早い段階で気がつき、その部分で勝負する為に努力するのが最善策かと思います。
ご自身が弱いところでは絶対に勝負せず、少しでも得意な事で努力をすれば、たぶん、かなり有利に戦いができるはずだと私は思います。